渋沢栄一と岩崎弥太郎、三菱商事との戦い!海運業で熾烈な戦いをやった⁉

渋沢栄一雑学
渋沢栄一生誕180年
NHK大河ドラマ、渋沢栄一は日本に資本主義を根付かせた人物です、そんな渋沢栄一にも最大のライバルがいました、それが岩崎弥太郎(1835年~1885年)!三菱商事の創業者です、そんな岩崎弥太郎と時代背景について記事にしました。

岩崎弥太郎って今はあまり聞いたこと

ないけど、三菱財閥の創業者なんだ、

三菱商事関係の人はみんな知っているでしょうね、たぶん、、、。

もちろん三菱商事の関係者には有名な人です。

さぁ大河ドラマで渋沢栄一の人生がスタートしました。

渋沢栄一が生きた時代背景とは?

渋沢栄一の生きた時代は物凄い変化の時代でした。

江戸末期、徳川幕府の滅亡、明治維新、新政府、朝鮮の植民地化、中国大陸、満州ets

戦争もありました、、戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)、西南戦争、

この時代に生きた有名な人物を何人ごご存知ですか?

将軍

徳川家慶(12代将軍)徳川家定(13代将軍)徳川家茂(14代将軍)徳川慶喜(15代将軍

渋沢栄一(天保11年/1840年~明治42年/1,909年)の生きた江戸末期、明治時代に活躍した人物は歴史ドラマや映画で見たことのある人達ばかりです(@_@)

坂本龍馬(京都近江屋で暗殺)、西郷隆盛(薩摩藩、西南戦争で死亡)、福沢諭吉(日本の近代化のグランドデザインを考案した一人書籍「学問のすすめ」等)、大久保利通(薩摩藩)、伊藤博文(日本最初の総理大臣、長州藩、松下村塾)、高杉晋作(長州藩、松下村塾で学ぶ)、山形有朋(長州藩、松下村塾で学ぶ)、岩倉具視(公家)、木戸孝允(長州)、大村益次郎(長州)、桂小五郎(長州)、小松帯刀(薩摩)、前原一誠(長州)
学者

藤田東湖(水戸藩水戸学藤田派の学者。幕末志士に大きな影響を与えた、渋沢栄一も影響を受けています)、吉田松陰(長州藩、松下村塾を開き、多くの若者を育てる)、吉田東洋、後藤象二郎

尊王攘夷、倒幕藩

長州藩、薩摩藩、熊本藩

幕府側

井伊直弼(桜田門外の変で暗殺)、勝海舟(日本で最初の海軍を率いた人物)、ジョン万次郎(幕府米国視察)会津藩(白虎隊で有名)、、海援隊新選組(近藤勇、沖田総司ets)、榎本武揚(蝦夷共和国総裁/戊辰戦争敗退後、現北海道を実行支配し蝦夷共和国/新政府を樹立、五稜郭の戦いで日本政府に敗退)

幕末から明治維新、明治と名だたる人達の活躍と戦いがあったんですね、さぁ武家社会の崩壊から、民主主義、資本主義が始まるわけです。
渋沢栄一が本格的に活躍する時代がやってきました。

渋沢栄一と岩崎弥太郎の戦い!

渋沢栄一は徳川幕府最後の将軍となる徳川慶喜に使えたわけですが、
渋沢栄一の考え方の原点ともいえる、
フランスパリ万博を慶喜の弟に随行して行っている間に、
徳川幕府は江戸城無血開城で終焉をむかえました。

新政府より帰国命令が出て帰国、慶喜がいる静岡で経済活動を始めます。
ここでの活躍が新政府の目に留まり、役人として働きはじめ現財務省の基礎をつくりあげました。

政府首脳との意見の食い違いから、下野し民間の企業の発展に寄与していきます。

渋沢栄一のライバル岩崎弥太郎とは?

さぁライバルと言われる岩崎弥太郎とはどんな人物だったのでしょうか?
岩崎弥太郎は土佐の下級藩士(地下浪人)でした、坂本龍馬とも面識はあったでしょう。

文才があり藩主にも認められ、21歳の時に江戸へ遊学し安積良斎の塾に入塾。
父の投獄の知らせを受け、帰郷し父の免罪を訴えたが、投獄、追放されてしまいます。

その後は吉田東洋の少林塾に入り学んでいきます。
後に引き立てられる、後藤象二郎にもこの時期に面識を得たようです。

吉田東洋が藩の政務に関わるようになってからは、土佐勤王党の監視や脱藩士(坂本龍馬等)の探索などにも従事していたようです。

吉田東洋はその後暗殺されるんですが、暗殺犯を追い大阪に赴くも、
尊王攘夷の勢いが凄く断念して任務放棄で無断帰国してしまったようです。

この時一緒に行った井上佐一郎は大阪に残るも、岡田以蔵に惨殺されてしまいます。
岩崎弥太郎は逃げ帰って正解だったんですね、残っていたら殺されていたでしょう。

土佐藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢される。

1867年に後藤象二郎により土佐藩の土佐商会主任・長崎留守居役をまかされ、
藩の貿易に従事するようになりました。

坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、
藩命により隊の経理を担当した。

明治元年(1868年)長崎の土佐商会が閉鎖され、大阪の土佐商会に移る、
翌年の1869年に土佐商会は九十九商会に改称し、岩崎弥太郎は海運業に従事するようになります。

廃藩置県が済んだ後に後藤象二郎の計らいで藩の負債を肩代わりする条件で船を2隻手に入れ、
海運業をはじめます。

岩崎弥太郎の個人企業、三菱商会設立

大阪の土佐藩蔵屋敷に三菱商会を設立し弥太郎の個人企業となります。
三菱のマークは、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて作ったようです。

岩崎弥太郎は政府の高官となった後藤象二郎からの情報を得て、藩札の買い上げで巨富得ています。

その後、台湾出兵の輸送や西南戦争の輸送など、他の海運業者が嫌がる仕事を引き受けて、

政府の信認を得て、どんどんと力を付けていきます。
大久保利通や大隈重信の信認を受けていたのですが、
明治14年の政変により大隈重信が失脚してから、大隈重信に資金提供していた三菱商会は目の敵にされ、
薩長閥ににらまれて、三菱潰しにかかるわけです。

この海運業で渋沢栄一と熾烈な戦いを始めるわけです、どちらも引かないダンピング戦争が始まり
両社とも倒産寸前までいきます。

岩崎弥太郎が死亡してダンピング戦争は終結するわけですが、
政府が主導して三菱と渋沢栄一の共同運輸会社が合併して日本郵船となったわけです。

三菱から離れた日本郵船は三菱財閥の源流となったわけです。
岩崎弥太郎は自社の利益になるならどんな困難もいとわない、利益主義者でした。

エネルギーの塊のような男、彌太郎は社長独裁こそが企業の活力の源泉と信じて疑わなかった。
明治8年制定の三菱汽船会社規則に謳(うた)う。
「当商会は…会社の名を命し会社の体をなすといえどもその実全く一家の事業にして…会社に関する一切のこと…全て社長の特裁を仰ぐべし」

今の株式会社ではありえないことですが、三菱商会は個人で資本の全てを握って経営していたのが岩崎弥太郎であり、
渋沢栄一は株式会社という、株主が集まって資本を出し合い、社会のために会社を経営するという考え方は相容れることはなかったでしょう。

では渋沢栄一とはどんな考えで会社経営に参加していたのでしょうか?

渋沢栄一の生き方や考え方とは?

渋沢栄一と岩崎弥太郎、明治の日本経済を代表する二人の実業家は、事業経営に全く異なる信念を持っていました。

渋沢は民にあって合本主義すなわち多数の株主による会社の設立を推進した。
第一国立銀行(後の第一銀行、現みずほ銀行)を創立したほか、数百にのぼる会社の設立に参画した。
儒教の精神を西洋流の企業経営に採り込み、義に叶った利を求め、「道徳と経済の合一」をモットーとした。

渋沢には岩崎三菱の専横が許し難かったようです。
近代経営の体をなさない単一資本にして社長独裁の会社が、
政府の助成を享受し日本の海運を意のままにしている。

許せない。日本のために良くない。渋沢は井上馨らに働きかけ、
三井を中心に共同運輸を設立した。
2年半にわたる壮絶なビジネス戦争が勃発したんです。

結局、共倒れ必至となり、両社合併して日本郵船になったのでした。

渋沢と弥太郎は明治日本の傑出した経営者でした。
ともに国際感覚に秀でていて、「国家社会があっての企業」という共通の哲学を持っていたようです。
お互いに一目置き、財界人としての活動では協力し合うことの多い二人だったようです。

しかし、渋沢は岩崎弥太郎に対して次のように言っています。
「余は岩崎彌太郎氏とは昵懇(じっこん)なりしも、それは私交上のみ、
主義の上には意見の背馳(はいち)するところ多かりき。…共同運輸会社を起こしたるも実に三菱に対抗するためなりき」。
と記しています。

両者の会社経営にたいする考え方は根本から違っていたようですね。

渋沢栄一から今学ぶべきことは何か?

学ぶべきは「開放的な経営」。

渋沢が活躍した戦前は、三菱や三井といった財閥が急速に成長した時期でした

彼ら財閥系は、当時ほとんど会社の株式を公開せず、実際に株を売り出すのは、三菱でもその多くが1930年代に入ってからと遅めでした。
また、実際の経営は「専門経営者」とよばれる経営者たちに委ねられていくことが多かったものの、
財閥系の人物は経営のトップに位置し、株式についても一族で所有するなど、非常に閉鎖的な経営であったといえます。

一方、渋沢栄一が関わった企業は、多くが株式会社の形態を取り、
少額でも広く民間から出資を募って、大きな会社を作っていきました。
そういった意味で「開放的な経営」だったと言えるでしょう。

現代の企業を見ると、広くいろいろな機関投資家が入っています。
さらにグローバル化によって、企業はもちろん、人やお金、モノ、情報が国境を越えて広がりを見せています。
その中で、財閥が主流だった戦前から、広い視点で開放的な経営をした渋沢栄一は特筆すべき人物だったのでしょう。

渋沢栄一・会社経営の考え方は?

やはり、純粋な公益の追求者であり、「日本全体を良くしたい」と切実に願っていたと思われます。
そしてそれこそが、今の経営者に求められる姿勢だと思います。

高度経済成長期や安定成長期、そしてバブル経済の頃は、日本の経済自体が伸びているので、
自社の利益だけ考えていても成果が見込めたといえます。

ただ、現在のように経済成長が頭打ちとなっている状況の中では、
自社の利益だけを見ているのではなく、むしろ、他の企業と協力して、
日本の経済そのものを良くしていかないといけない状況じゃないでしょうか?。

言うは易し行うは難しでそう簡単にはいかないことが、会社経営です、
自社の利益がなかったら、倒産してしまいます。

生き残っていくためには利益を優先するのは当然のことです、
そこで他社との競争が起こってくるのもしかたないことでしょう。

ただし、経営者の考え方の横暴で、ブラック企業と化した会社は、
どうなんでしょうか?

利益最優先、社員に行き過ぎた犠牲を強いて経営者が甘い汁を吸うことは、
あってはならないことだと思います。

渋沢栄一の視点で企業が変わってくることが今は求められているということでしょうか。

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まとめ

渋沢栄一と岩崎弥太郎、ライバルの生き方の違いと、
江戸末期、明治維新、明治、の時代背景を解説してきました。

財閥経営が中心の日本にあって、
渋沢栄一は当初から株式会社として会社経営をしてきました。、
当時としては異端の人であったのですが、
日本経済をを良くしたい、この一念があったのでしょう。

経営者として学ぶべき点は多いと思いました。

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